それだからダメなんだ
26歳・無職の男が自堕落な日々と人生を適当に語るような、そんな...
自分探し
速水健朗著「自分探しが止まらない」を読んだ。

感想代わりに、個人的な「自分」感を書いてみたい。
俺が中学生の頃、教育現場では「個性重視」の謳い文句が飛び交っていた。従来の画一的な教育より、生徒一人一人と対峙し、長所を伸ばしてゆこう、と言う方針らしかった。「偏差値制度」も、廃止された。丁度世間から、横並び教育の弊害、と糾弾されていた頃だ。
で、当の教師も「今のうちにやりたい事、目指すべき道を模索しておくように!」と、生徒達に発破をかけていた。とはいえ、相手は十三〜四の子供である。おれ自身は正直、「そんなこと言われてもなぁ・・・」といった心境。
わかるわけが無かった。世間がどうなっていくのかも、自分がどうなっていくのかも。当時も今も、俺は今を生きる事で手一杯だった。折りしも世間では、阪神大震災、サリン事件、酒気薔薇事件と、暗澹たる未来を予見するかのような事件が相次いでいた。
「こういう時代だからこそ、しっかりとした自分のというものを持っていなければダメだ!」
俺の担任教師はそう言った。クラスの皆もなんとなくそれに同調していた。「自分はどうしたいのか?」「本当の自分とは何か?」 皆、自分なりに考え、悩んでいたと思う。そして、悩んだまま卒業していった、彼ら彼女らは、高校生活でそれなりの「自分」というものを見つけていたように思う。
ギターが趣味だった彼は、ミュージシャンになりたいと言って、学校を中退した。銀髪でピアスだらけだった彼女は、ファッションデザイナーになると言って、装飾系の専門学校に進んだ。一個上の先輩は声優になると宣言した。
その後の彼らの足取りは、現在は知る由も無い。それでも、自分なりに悩み、考えて、彼らは道を進んだ。その姿勢は、素直に尊敬したい。夢は叶わなかったかもしれないが、どうにか生きてはいるだろうと信じたい。
で、俺の場合であるが、・・・これが全く見当がつかなかった。
「自分は何がしたいか?」「自分とは何か?」 いくら考えても、答えが見つからなかった。そして、今でもわからないまま、ノンベンダラリと生きている。
俺が馬鹿だからだろうか。それもある。
あまりに世間知らずだから。それもあるだろう。
二十七年もの間、生きてきて、手に入れた「自分」は、オタクで、鬱病で、人間嫌いで、ハゲで、サラリーマン見習いという、何とも薄っぺらな、トイレットペーパー並みに薄っぺらな、そんな有様だった。
たまに、こんな自分が、嫌になる時がある。憎らしく思う時がある。いっそ、死んでしまいたいと思う。
なら、「本当の自分」が何処かにあるのか? 北海道やインドあたりに旅に出れば、それが見つかるのか? 語学留学でもすれば良いか? 路上詩人にでもなるか? 今いる環境から脱却すれば、「新たな自分」が見つかるのか?
そうは思わない。
「自分」なんてものは、そこら辺の石ころのように転がってはいない。秘境の奥地に眠る宝箱の中に入ってるでもない。
いま、こうしてブログの記事を書いている、この俺こそが「自分」だ。
オタクで、鬱病で、人間嫌いで、ハゲで、サラリーマン見習いな俺が、他でもない「自分」だ。本当も嘘もない。ただ「自分」だ。これが俺なのだ。今この時点で、これ以外の自分はありえない。
だから、嘆いても仕方が無い。
いま、俺に出来る事は、そんな「自分」を出来るだけ、愛してやる事だ。笑って、許してやるのだ。世の全てが嫌になっても、この「自分」だけは、なんとか肯定してやろう。そう思う。
それに、たとえ現状の「自分」に不満を持っていたって、人は常に変わる。変わらざるを得ないのだ。結婚するとき、子を授かるとき、親が死ぬとき。嫌でも、人は変わる。一本芯の通った「自分」、と思っていたって、実は案外脆かったりするのかもしれない。
けど、それでいいと思う。
将来、「自分」は、どんな風に変わっているのか。不安と期待が入り混じった気持ちで、見守って生きたい。

感想代わりに、個人的な「自分」感を書いてみたい。
俺が中学生の頃、教育現場では「個性重視」の謳い文句が飛び交っていた。従来の画一的な教育より、生徒一人一人と対峙し、長所を伸ばしてゆこう、と言う方針らしかった。「偏差値制度」も、廃止された。丁度世間から、横並び教育の弊害、と糾弾されていた頃だ。
で、当の教師も「今のうちにやりたい事、目指すべき道を模索しておくように!」と、生徒達に発破をかけていた。とはいえ、相手は十三〜四の子供である。おれ自身は正直、「そんなこと言われてもなぁ・・・」といった心境。
わかるわけが無かった。世間がどうなっていくのかも、自分がどうなっていくのかも。当時も今も、俺は今を生きる事で手一杯だった。折りしも世間では、阪神大震災、サリン事件、酒気薔薇事件と、暗澹たる未来を予見するかのような事件が相次いでいた。
「こういう時代だからこそ、しっかりとした自分のというものを持っていなければダメだ!」
俺の担任教師はそう言った。クラスの皆もなんとなくそれに同調していた。「自分はどうしたいのか?」「本当の自分とは何か?」 皆、自分なりに考え、悩んでいたと思う。そして、悩んだまま卒業していった、彼ら彼女らは、高校生活でそれなりの「自分」というものを見つけていたように思う。
ギターが趣味だった彼は、ミュージシャンになりたいと言って、学校を中退した。銀髪でピアスだらけだった彼女は、ファッションデザイナーになると言って、装飾系の専門学校に進んだ。一個上の先輩は声優になると宣言した。
その後の彼らの足取りは、現在は知る由も無い。それでも、自分なりに悩み、考えて、彼らは道を進んだ。その姿勢は、素直に尊敬したい。夢は叶わなかったかもしれないが、どうにか生きてはいるだろうと信じたい。
で、俺の場合であるが、・・・これが全く見当がつかなかった。
「自分は何がしたいか?」「自分とは何か?」 いくら考えても、答えが見つからなかった。そして、今でもわからないまま、ノンベンダラリと生きている。
俺が馬鹿だからだろうか。それもある。
あまりに世間知らずだから。それもあるだろう。
二十七年もの間、生きてきて、手に入れた「自分」は、オタクで、鬱病で、人間嫌いで、ハゲで、サラリーマン見習いという、何とも薄っぺらな、トイレットペーパー並みに薄っぺらな、そんな有様だった。
たまに、こんな自分が、嫌になる時がある。憎らしく思う時がある。いっそ、死んでしまいたいと思う。
なら、「本当の自分」が何処かにあるのか? 北海道やインドあたりに旅に出れば、それが見つかるのか? 語学留学でもすれば良いか? 路上詩人にでもなるか? 今いる環境から脱却すれば、「新たな自分」が見つかるのか?
そうは思わない。
「自分」なんてものは、そこら辺の石ころのように転がってはいない。秘境の奥地に眠る宝箱の中に入ってるでもない。
いま、こうしてブログの記事を書いている、この俺こそが「自分」だ。
オタクで、鬱病で、人間嫌いで、ハゲで、サラリーマン見習いな俺が、他でもない「自分」だ。本当も嘘もない。ただ「自分」だ。これが俺なのだ。今この時点で、これ以外の自分はありえない。
だから、嘆いても仕方が無い。
いま、俺に出来る事は、そんな「自分」を出来るだけ、愛してやる事だ。笑って、許してやるのだ。世の全てが嫌になっても、この「自分」だけは、なんとか肯定してやろう。そう思う。
それに、たとえ現状の「自分」に不満を持っていたって、人は常に変わる。変わらざるを得ないのだ。結婚するとき、子を授かるとき、親が死ぬとき。嫌でも、人は変わる。一本芯の通った「自分」、と思っていたって、実は案外脆かったりするのかもしれない。
けど、それでいいと思う。
将来、「自分」は、どんな風に変わっているのか。不安と期待が入り混じった気持ちで、見守って生きたい。
大失態
な〜んか、ブログのネタ無いかな〜・・・。
って、呑気にネットをうろついていたところ、家の電話が鳴る。出る。
課長からだった・・・。
「あの〜、Garland君さぁ・・・、僕の上着間違えて持って帰ってない?」
は? そんな馬鹿な・・・と、ポケットをまさぐってみる・・・。
見知らぬ車のキーが出てきた・・・・・
俺のじゃねぇ!!!
「すすすssすすsっすう・・・スイマセン! 間違えましたあああああ!!!」
「あぁ、やっぱりw じゃあ、悪いんだけど、今から届けてもらえるかなぁ。車の鍵が無くて帰れなくてさぁwww」
「はい、届けます! 全力で、今すぐ、届けに行きます!!!!」
「ははっ、急がなくていいから。車に気をつけて。」
・・・・・で、今帰ってまいりました。
一言いいですか?
死にたい
って、呑気にネットをうろついていたところ、家の電話が鳴る。出る。
課長からだった・・・。
「あの〜、Garland君さぁ・・・、僕の上着間違えて持って帰ってない?」
は? そんな馬鹿な・・・と、ポケットをまさぐってみる・・・。
見知らぬ車のキーが出てきた・・・・・
俺のじゃねぇ!!!
「すすすssすすsっすう・・・スイマセン! 間違えましたあああああ!!!」
「あぁ、やっぱりw じゃあ、悪いんだけど、今から届けてもらえるかなぁ。車の鍵が無くて帰れなくてさぁwww」
「はい、届けます! 全力で、今すぐ、届けに行きます!!!!」
「ははっ、急がなくていいから。車に気をつけて。」
・・・・・で、今帰ってまいりました。
一言いいですか?
死にたい
殴り書き
空しい・・・。
ひたすら、空しい・・・。
頭が痛い。とても、辛い。
・・・いっそ、死んでしまいたい。
生きるのが、辛い。生きるのが、空しい。
人生は、灰色だ。
白なのか、黒なのか。ハッキリしない。
仄暗い色。
幸福なのか、不幸なのか。
苦痛なのか、安楽なのか。
意味が有るのか、無いのか。
わからない。
ぼんやりと、霧のように、漂っているだけ。
みんな、考えた。
昔から、考えてきた。
ハッキリさせようと。
答えを出そうと。
・・・でも、無理だった。
やっぱり、わからない。
わからないまま、死んでゆく。
それが人生。
ひたすら巨大で、ひたすら矮小。
掴んだと思っても、すぐに消える。
空しい。
とても、とても、空しい。
・・・・・
疲れている様だ。
早く寝よう。
オヤスミ。
ひたすら、空しい・・・。
頭が痛い。とても、辛い。
・・・いっそ、死んでしまいたい。
生きるのが、辛い。生きるのが、空しい。
人生は、灰色だ。
白なのか、黒なのか。ハッキリしない。
仄暗い色。
幸福なのか、不幸なのか。
苦痛なのか、安楽なのか。
意味が有るのか、無いのか。
わからない。
ぼんやりと、霧のように、漂っているだけ。
みんな、考えた。
昔から、考えてきた。
ハッキリさせようと。
答えを出そうと。
・・・でも、無理だった。
やっぱり、わからない。
わからないまま、死んでゆく。
それが人生。
ひたすら巨大で、ひたすら矮小。
掴んだと思っても、すぐに消える。
空しい。
とても、とても、空しい。
・・・・・
疲れている様だ。
早く寝よう。
オヤスミ。
老い
先ほど、母さんにこっぴどく怒られた。ので、この憤懣やるかたない気持ちを、このブログにぶちまけたいと思う。本人に直接文句を言えない、チキンな俺の戯言を、どうか笑ってほしい。
社会保険庁から、年金の加入状況のお知らせの葉書が届いた。母親がそれを勝手に見た。そして、未納の期間があるといって、怒った。俺は母親には、年金はキチンと納めていると言っていた。当然、嘘であった。適当にごまかしていたのだが、あっさりバレた。
今いる会社から給料が出たら、未納分も支払うように。
そう、叱責された俺は、力なく首を縦に振った。
何とも情けない話だなぁ・・・。と、読者諸兄は思うだろう。俺もそう思う。三十路手前の男がするような諸行ではない。
とはいえ、俺が年金を納めなかったのは、なにも国が信用できないとか、そういった大層な理由ではない。自分の将来を考えたとき、どうしても払う気が失せてしまうのだ。・・・はて、普通逆ではないか。自分の将来を視野に入れてこそ、納める年金ではないか。確かにそうである。その通りではあるのだが。
俺の場合、年金を受け取る歳まで、生きている自信が無いのだ。
俺は、将来、自殺すると思う。
それは何時なのか、何歳の時なのか、まだわからない。漠然と、そう考えているだけ。だが少なくとも、今の俺には、臨終の際に家族に囲まれながら、眠るように息を引き取るような、そんな「死」が想像できない。そういった、恙無い「死」は、俺には無縁だと、そんな気がする。
人は、みんな老いる。
その姿は、とても醜く、哀れである。
小学生の頃、近所の病院に併設されている、老人ホームを慰問した事がある。そこにいた老人達は、皆呆けてしまい、自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、わからない様な状態だった。車椅子でしか移動できない人、食事もまともに出来ない人、全身にチューブを巻かれた人。様々だった。引率した担任教師は、彼らのそれでも必死に生きている姿に感動していたようだった。だが、残念ながら俺の抱いた印象は、それとは完全にかけ離れていた。
俺は、その老人達が、同じ人間でありながら、なにか異形の物のように映った。地獄絵図に描かれている、亡者のようだった。恐怖すら抱いた。そして、自分も老いれば、彼らのように様になるかもしれない。そんな未来に、絶望した。
老いるとは、どういうことか。当時の俺は、その現実をまざまざと見せ付けられた。
老いは、人の背負った、絶対的不幸の一つだ。
俺は、そんな不幸は、まっぴらだ。
醜く老いて行く様を、見られたくない。呆けて、他人の世話になんてなりたくない。病院のベッドで、管に巻かれるなんてゴメンこうむる。
では、どうすればいいのか。
死んじゃえばいいんである。
頃合を見計らって。ポックリと、逝っちゃえばいいんである。
こんなことを言うと、「死んではダメだ!生きろ!!!」と、頭ごなしに怒鳴り散らす人が出てきそうである。うざったい事この上ない。何の権限があって他人の生に指図するのか、意味がわからない。「生きていればいい事があるよ!」なんていう人も、何でそんなことが言い切れるのかと言いたくなる。良い事が何も無かったらどう責任を取ってくれるんだ。そもそも人生には、良いことも悪い事もある。それくらいは知っている。しかし俺は、そうした事実を踏まえた上で、もう人生にはウンザリなんだ。
生き方なんて人それぞれだ。各々、生きたいように生きれば良い。当たり前の事だ。長寿を目指すのなら、どうぞ目指してくれ。誰も文句なんか言わない。それも、一つの立派な生き方だから。
なら、老いを拒否して、自ら命を絶つことだって、立派な生き方であって然るべきだ。
・・・ふぅ、もう眠いので今日はこの辺で。続きは下を見てね。
社会保険庁から、年金の加入状況のお知らせの葉書が届いた。母親がそれを勝手に見た。そして、未納の期間があるといって、怒った。俺は母親には、年金はキチンと納めていると言っていた。当然、嘘であった。適当にごまかしていたのだが、あっさりバレた。
今いる会社から給料が出たら、未納分も支払うように。
そう、叱責された俺は、力なく首を縦に振った。
何とも情けない話だなぁ・・・。と、読者諸兄は思うだろう。俺もそう思う。三十路手前の男がするような諸行ではない。
とはいえ、俺が年金を納めなかったのは、なにも国が信用できないとか、そういった大層な理由ではない。自分の将来を考えたとき、どうしても払う気が失せてしまうのだ。・・・はて、普通逆ではないか。自分の将来を視野に入れてこそ、納める年金ではないか。確かにそうである。その通りではあるのだが。
俺の場合、年金を受け取る歳まで、生きている自信が無いのだ。
俺は、将来、自殺すると思う。
それは何時なのか、何歳の時なのか、まだわからない。漠然と、そう考えているだけ。だが少なくとも、今の俺には、臨終の際に家族に囲まれながら、眠るように息を引き取るような、そんな「死」が想像できない。そういった、恙無い「死」は、俺には無縁だと、そんな気がする。
人は、みんな老いる。
その姿は、とても醜く、哀れである。
小学生の頃、近所の病院に併設されている、老人ホームを慰問した事がある。そこにいた老人達は、皆呆けてしまい、自分が誰なのか、どうしてここにいるのか、わからない様な状態だった。車椅子でしか移動できない人、食事もまともに出来ない人、全身にチューブを巻かれた人。様々だった。引率した担任教師は、彼らのそれでも必死に生きている姿に感動していたようだった。だが、残念ながら俺の抱いた印象は、それとは完全にかけ離れていた。
俺は、その老人達が、同じ人間でありながら、なにか異形の物のように映った。地獄絵図に描かれている、亡者のようだった。恐怖すら抱いた。そして、自分も老いれば、彼らのように様になるかもしれない。そんな未来に、絶望した。
老いるとは、どういうことか。当時の俺は、その現実をまざまざと見せ付けられた。
老いは、人の背負った、絶対的不幸の一つだ。
俺は、そんな不幸は、まっぴらだ。
醜く老いて行く様を、見られたくない。呆けて、他人の世話になんてなりたくない。病院のベッドで、管に巻かれるなんてゴメンこうむる。
では、どうすればいいのか。
死んじゃえばいいんである。
頃合を見計らって。ポックリと、逝っちゃえばいいんである。
こんなことを言うと、「死んではダメだ!生きろ!!!」と、頭ごなしに怒鳴り散らす人が出てきそうである。うざったい事この上ない。何の権限があって他人の生に指図するのか、意味がわからない。「生きていればいい事があるよ!」なんていう人も、何でそんなことが言い切れるのかと言いたくなる。良い事が何も無かったらどう責任を取ってくれるんだ。そもそも人生には、良いことも悪い事もある。それくらいは知っている。しかし俺は、そうした事実を踏まえた上で、もう人生にはウンザリなんだ。
生き方なんて人それぞれだ。各々、生きたいように生きれば良い。当たり前の事だ。長寿を目指すのなら、どうぞ目指してくれ。誰も文句なんか言わない。それも、一つの立派な生き方だから。
なら、老いを拒否して、自ら命を絶つことだって、立派な生き方であって然るべきだ。
・・・ふぅ、もう眠いので今日はこの辺で。続きは下を見てね。
老い 弐
「人間は生きる権利があると同様に、死ぬる権利もあるはずです。」
太宰の小説「斜陽」の一説。「権利」なんて書くと、少々大げさな感じもする。ので、こう言い換えてはどうだろう。
「人間は生きる生き方があると同様に、死ぬ生き方もある。」
「生きる生き方」とは・・・?
生きるのである。我武者羅に生きるのである。老人になって、手足の自由が利かなくなり、介護職員の世話になっても。重い病に罹り、高額な延命治療をほどこされても。生きるのだ。生きるのだ。天寿を全うするまで生きるのだ。それも立派な生き方だ。
死ぬ生き方とは、それと真逆の考え方だ。
老齢になって、他人の世話にはなりたくない。病院のベッドの上で余生を送るのも嫌だ。なにより、醜く老いてゆくこの自分が、たまらなく嫌だ。他人には、とても見せれたものではない。
だから、死んでしまおう。人生にも、潮時と言うものがある。もう充分生きた。当人の中で整理がついたのなら、いっそ自らポックリ逝ってしまおう。それだって、立派な生き方だ。
長々と書き連ねてきたが、まぁこんな思想が頭の隅にこびりついてる様な人間なのだ、俺は。
だから、「老後のための蓄え」とか、「老後も安心○○保険」といった、老後の備えが、どうも胡散臭く感じてしまう。しり込みしてしまう。というか、最初にも書いたが、老齢まで生きていると言う未来を想像できない。
充分生きたと、自分の中で実感が持てれば。そのままポックリと逝ってしまえばいい。
それも、生き方。
太宰の小説「斜陽」の一説。「権利」なんて書くと、少々大げさな感じもする。ので、こう言い換えてはどうだろう。
「人間は生きる生き方があると同様に、死ぬ生き方もある。」
「生きる生き方」とは・・・?
生きるのである。我武者羅に生きるのである。老人になって、手足の自由が利かなくなり、介護職員の世話になっても。重い病に罹り、高額な延命治療をほどこされても。生きるのだ。生きるのだ。天寿を全うするまで生きるのだ。それも立派な生き方だ。
死ぬ生き方とは、それと真逆の考え方だ。
老齢になって、他人の世話にはなりたくない。病院のベッドの上で余生を送るのも嫌だ。なにより、醜く老いてゆくこの自分が、たまらなく嫌だ。他人には、とても見せれたものではない。
だから、死んでしまおう。人生にも、潮時と言うものがある。もう充分生きた。当人の中で整理がついたのなら、いっそ自らポックリ逝ってしまおう。それだって、立派な生き方だ。
長々と書き連ねてきたが、まぁこんな思想が頭の隅にこびりついてる様な人間なのだ、俺は。
だから、「老後のための蓄え」とか、「老後も安心○○保険」といった、老後の備えが、どうも胡散臭く感じてしまう。しり込みしてしまう。というか、最初にも書いたが、老齢まで生きていると言う未来を想像できない。
充分生きたと、自分の中で実感が持てれば。そのままポックリと逝ってしまえばいい。
それも、生き方。



